大阪市中央区について

大阪市と言われて思い浮かべるものはなんですか?たこ焼き、お好み焼き、串カツ、うどんと美味しいものがいっぱいある街というイメージ。それに大阪城や道頓堀など歴史深い名所がある街というイメージもありますね。大阪と言えばお笑いの本場でもあります。上方演芸資料館、大阪松竹座、なんばグランド花月と、芸能の最先端を行く街でもあります。そんな大阪市の中でも一際異彩を放っているのが中央区です。中央区は日本中の大手企業が本社を置く街であり、同時に観光地としても栄えていて、大阪の街を盛り上げている存在なのです。今回はそんな大阪市中央区について書いて行こうと思います。

大阪市中央区とは

大阪市中央区は大阪府のほぼ中央に位置する大阪市を構成する24区のうちの一つです。大阪府の府庁所在地でもあります。大阪市は近畿地方や西日本の行政・経済・文化・交通の中心都市であり、「天下の台所」という異名を持つ都市としても知られています。夜間の人口は約267万人で、これは横浜市に次いで全国2位、人口密度は政令指定都市の中では第1位、昼間人口も東京23区に次いで約369万人と、多くの人々がこの街で働き、暮らしています。また、大阪市の市内総生産は約19兆円で、政令指定都市中最大であり2倍から3倍の人口を擁する北海道や千葉県、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回る程です。そんな大阪市の人口3%程を締めるのが中央区です。中央区は元号が平成になって間もない1989年2月13日に旧東区と旧南区が合併して誕生しました。その名残で現在も、中央区内で旧久米井の「東」「南」を冠した税務署や警察署、郵便局などが存在しています。2010年に行われた国税調査速報では、対前回比人口増加率が17.9%増となりました。これは政令指定都市の行政区の中ではトップの値でした。この伸び率は東京都中央区の24.8%増と並び、全国でも屈指の伸びでした。早くから大阪の心臓部として業務地化が進み、居住には適さない環境になりつつあったため、30年以上に渡ってドーナツ化現象による居住者現象が続いていたのですが、バブル崩壊以降は老朽化して取り壊されたオフィスビルの跡地などに居住用の大型マンションが立ち並ぶなどして再び夜間人口が上昇を続けています。特に谷町筋沿いの旧東区東部の周辺は、高層マンションの建設が盛んに行われていて、中央区の中でも群を抜いた人口増加率を見せています。この地域は官公庁街や北浜のような金融街のみならず、大阪府立大手前高等学校などを有する文教地区でもあるのです。区の大部分がオフィス街及び官庁街であるため、純粋な住宅地は限られた場所にしかありません。その限られた住宅地もマンションや団地などの集合住宅がほとんどで低層住宅の戸建住宅やアパートなどはほとんど見かけません。道路は碁盤の目のように規則正しく並んでおり、市内の他の地域と比べてもよく整備されていることが分かります。なお、昭和55年の国勢調査と平成22年の国勢調査を比べると、旧東区地域では27227人から37469人に増加、旧南区地域では36380人から41321人に増加しています。現在も大阪に本社を置くロート製薬やハウス食品、さらには大阪発祥の企業である野村証券とUSEMは中央区が発祥の地でもあります。

中央区基本情報

  • 面積・・・8.88k㎡
  • 総人口・・・88,819人
  • 人口密度・・・10,000人/k㎡
  • 隣接する自治体・・・大阪市(都島区、西区、天王寺区、難波区、東成区、城東区、北区)
  • 区の花・・・梅、パンジー

大阪豆知識~「まち」と「ちょう」~

大阪市中央区には「町」という字の付く地名が45あります。「~まち」と読む地名は10なのに対し、「~ちょう」と読む地名は35。「淡路町」や「安土町」など、他の件では「まち」読みする地名でも、大阪では「ちょう」読み。一体なぜ「~ちょう」と読む地名がこんなにも多いのでしょうか。東京都内にも「まち」読みと「ちょう」読みの地名があるかと思いますが、これには明確な理由があります。大手町など武家屋敷のあったところが「まち」で、鍛治町など町人が住んでいた地域は「ちょう」と読むのだそうです。では大阪でもそうなのかというとこれが当てはまらない。地理に詳しい専門家によれば、大阪天満宮や四天王寺の周辺に「まち」が多いので、寺町が由来なのではという意見だったのですが、中央区を見てみると特別に寺社が多いわけではないため、この説では説明しきれない点が多いです。大阪の歴史に詳しい博物館の学芸員さんによると、大阪には江戸時代から「まち」読みが習慣付いていたそうです。江戸時代から大阪は商人の町でした。武士はほとんど住んでおらず、身分や職業による区別はなかったと考えられています。「まち」読みが古くから根付いていたことを証明する文献があります。天保13年に刊行された「大坂町鑑」です。この文献では「まち」と読む地名には「町」の字を、「ちょう」と読む地名には「丁」の字を使い分けて記載しています。それでいくと3分の2程度が「まち」読みとなっています。なぜそういう呼び方になったのかは分かりませんが、古い地名がそのまま残っていることから、中央区には「まち」読みが多いのではないかと専門家は指摘しています。実は1962年に「住民表示に関する法律」というものが施行され、古い地名は全国的に廃止されるという動きがありました。しかし大阪市中央区には古い地名が多く残っています。それはこの地域に江戸時代から続く料亭や商家などが多くあり、地元への愛着が強く残っていたためだと言われています。町の人々が団結して古い地名を残そうと活動したのだそうです。現在大阪市中央区は、オフィスビルやマンションが増え、古くからの商店などは減少傾向にあります。それに従い地名の由来を知る人も少なくなってきていますが、先人たちが思いを込めて残そうとしたこの地名を大切にしたいなと思いました。

「天下の台所」とは

大阪を形容する言葉としてよく使われるのが「天下の台所」というフレーズです。この言葉はいつごろ出来たものなのでしょうか。「天下の台所」とは、江戸時代の「大坂」を指した言葉で、現在でも大阪の異名として使われている用語です。全国の藩が大坂に蔵屋敷(大名が年貢米や領内の特産物を販売するために設置した倉庫兼邸第の事)などを設け、生活物資の多くが一旦生産地から大坂に集められ、再度全国の消費地に送られていたからと言われています。つまり、江戸時代の大坂は全国各地から米や特産品が集まる物流・商業の中心地だったということです。当時、家の中で家財道具をはじめ物品が一番多く集まる場所は台所だったそうです。そのため、日本を家を考えた場合、多くの物資であふれかえっていた大坂の町は、まるで「台所」のようだと考えられていたそうです。

言葉の由来

公文書では、1843年(天保13年)に天保の改革による株仲間廃止論に異論を唱えた大坂町奉行・阿部正蔵の意見書「諸色取締方之儀ニ付奉伺候書付」の中に、「大坂表之義は諸国取引第一之場所」「世俗諸国之台所と相唱」という文面が見られます。このため、これを「天下の台所」の由来と見る考えが広く浸透しています。ただ、正確な用語としては、大阪市史料調査会主任調査員の野高宏之によると、江戸時代の文献に大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」と評する記述は存在するのですが、「天下之台所」と直接記述した文献は存在せず、大正時代に幸田成友が「大阪市史 第二」等の叙述中で用いた用語が、一般に広まっていく過程で、江戸時代から存在した言葉と誤解されたことが分かっています。

大坂町人文化の中心地「船場」

船場とは大阪府大阪市中央区にある地名です。江戸時代の大坂の町人文化の中心となっていた場所であり、現在も大阪市の中心業務地区にあたります。船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていました。船場という地名の語源には諸説あり、しばしば戦争があった場所で「戦場」と呼ばれたことから。大坂城の馬を洗った場所だったので「洗馬」と呼ばれたことから。砂浜だったので「砂場(さば)」と呼ばれ、これがなまって「センバ」になったことから。古代は船着場であり、着船場の「着」の字を省いて「船場」となった、などの様々な説があります。船場は河川と人工の堀川に囲まれた四角形の地域で、範囲は東西1㎞、南北2㎞となっています。江戸時代の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもあります。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接しています。街区は基本的に40間四方の正方形で、街路は碁盤目状に綺麗に整備されています。大坂城の西に位置するため、東西方向が竪となり、東西方向の街路を通(とおり)と呼びます。通は全部で23本あります。当初の幅員は4.3間に設定されていたそうです。一方南北方向は横となり、南北方向の街路は筋(すじ)と呼ばれています。筋は全部で13本です。当初は補助的な街路と見なされていたので、幅員は通に比べて3.3間と狭く設定されていました。町割りは基本的に通に沿った両側町で、東から丁目数にして5程度の町が多かったそうです。ただし、西横堀筋は全て南北方向の横町割りで、渡辺筋や御霊筋にも横町割りが見られました。明治以降は通と筋の主従関係が逆転したのですが、東西方向の竪町割りは依然として健在で、平成以降は竪町割りに統一されています。

船場の歴史

豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を築城した時、大勢の家臣団や武士がこの地に集まりました。そのため、武器や武具、それに食料や生活用品も大量に必要となりました。そこで幕府は平野や堺、京都、伏見などから商業者を強制的に船場の周辺に移住させ、急速に城下町の整備を進めたのでした。平野町、伏見町と言った町名はその名残りなのだそうです。その後、船場周辺には船宿、料亭、呉服店、金物屋、両替商などが次々に誕生し、政治、経済、龍通の中心地となったのでした。江戸時代になると、先に記載した「天下の台所」として北部を中心に大坂は日本の商業の中心となっていきます。また、順慶町あたりから島之内、道頓堀にかけては歓楽街として栄えていきました。現在の船場は、繊維問屋や商社、証券会社、銀行が集中しすぎてしまい、過密が問題となるほどとなっています。現に問屋街などは、郊外への移転が行われました。それでもいまだに過密であることに変わりはないのですが、かつての活気は船場からは失われつつあります。一方で地元も様々な運動を開始しており、他の地域との協力や交流も初めています。例えば、2005年3月26日には綿業会館(国の重要文化財)で、銀座まちづくり会議(東京)、横濱まちづくり倶楽部(横浜)、都心界隈まちづくりネット(京都)、せんばGENKIの会(大阪)の四団体共同で船場フォーラムを開催しています。このように、今でも船場の人達は、昔の活気を取り戻そうと働き掛けているのです。

大阪市中央区は企業の街